世界遺産 015「平泉-仏国土を表す考古学的遺跡群」
平泉 - 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群
地域 : 岩手県
登録年 : 2011年
登録基準 : II・VI
登録区分 : 文化遺産
平泉は、11世紀~12世紀の日本列島北部領域において、仏教に基づく理想世界の実現を目指して造営された政治・行政上の拠点です。
その拠点に存在する4つの庭園は、奥州藤原氏により、現世における仏国土(浄土)の象徴的な表現、つまり池泉・樹林・金鶏山頂と関連して仏堂を周到に配置することにより実体化した理想郷の光景として造営されました。4つの庭園のうち3つは、神聖な山である「金鶏山」に焦点を合わせており、浄土思想の理想と、庭園・水・周辺景観の結びつきに関する日本古来の概念との融合を例証しています。また、浄土庭園のうち2つは、発掘調査により発見された多くの詳細事項に基づき復元されたものであり、他の2つは現在も地下に埋蔵されたまま残されています。さらに、重厚に金箔を貼った中尊寺の仏堂は、12世紀から残る唯一のものであり、奥州藤原氏の巨大な富を反映しています。
このかつての巨大な政治・行政上の拠点に存在し、浄土庭園、12世紀から残存する顕著な仏堂、神聖なる金鶏山との関係を伴う4つの寺院仏堂の複合体は、平泉の財力を反映する類い希なる集合であり、日本の他の都市の仏堂や庭園にも影響を与えた計画・庭園の意匠設計に関する概念を表しています。
構成資産は次の5資産。
奥州藤原氏の初代清衡が12世紀始めから四半世紀をかけて造営した寺院です。境内には、金色堂、金色堂覆堂、経蔵等の国宝及び重要文化財があり、鎮護国家大伽藍一区跡等、境内の全域が特別史跡に指定されています。金色堂は、境内北西側に位置する阿弥陀堂建築の霊廟で、藤原氏4代の遺体及び首級が安置されており、平泉の政治・行政のみならず、精神的な拠り所にもなっています。
中尊寺(中尊寺金色堂/金色堂覆堂/中尊寺経蔵/白山神社能舞台/中尊寺境内)
2代基衡が12世紀中頃に造営した寺院の跡です。境内には、特別史跡及び特別名勝に指定されている浄土庭園と、それらの構成要素である常行堂が含まれています。また、常行堂で行われる常行三味の修法と「延年」の舞は、12世紀における浄土思想の一端を示すものとして重要です。
毛越寺の東に接して基衡の妻が建立した寺院の跡です。発掘調査の結果、園池を中心として、北側には大小の阿弥陀堂が設けられており、阿弥陀如来の極楽浄土の表現を意図して浄土庭園が造られていたことが明らかとなっています。
3代秀衡が12世紀後半に建立した寺院の跡です。西方に金鶏山が控え、園池に浮かぶ大小3つの島に翼廊付の仏堂と拝所・舞台をそれぞれ設けた空間構成は、浄土庭園の最も発展した形態と考えられています。
標高98.6mの山で、山頂に経塚が設けられていました。浄土思想に基づいて完成された政治・行政上の拠点としての、平泉の空間設計の基準となった信仰の山であると考えられます。
登録地域の面積は、構成資産 176ヘクタール、それを保護する緩衝地帯6,008ヘクタール。
源義経と平泉
安土桃山時代、源義朝の九男として生まれた源義経は父の義朝が「平治の乱」で平清盛に敗れ、討ち死にした後は京都の鞍馬寺にあずけられることとなった。しかし、僧になることを嫌った義経は、16歳で鞍馬寺を脱して、平泉に向かいました。藤原秀衡は、義経をあたたかく迎えたといわれています。平泉は、義経が青春時代を過ごした地と考えられています。
義経は、兄の頼朝が平氏に対して兵をあげたことを知ると、平泉から頼朝のもとにかけつけています。義経は「一の谷の戦い」「屋島の戦い」で平氏に大きな打撃をあたえ、ついには「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅ぼした。
平家を滅ぼした褒美に朝廷から役職をもらい受けた義経であったが、そのことで頼朝との仲は悪くなってしまいました。そして、ついに義経は追われる身となり、長い逃避行の末、再び秀衡のもとに身を寄せたのです。
しかし、秀衡が間もなく死んだため、頼朝からの圧力は強まっていきました。跡継ぎの泰衡は、この圧力に耐えられず、衣河館に義経を襲います。義経は、ついに妻子とともに自害したのです。
引用 : 文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlinkC
ひらいずみナビ
http://hiraizumi.or.jp/heritage/index.html
引用 : 日本の世界遺産-平和が一番
https://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/index.html
平泉の文化遺産
https://www.town.hiraizumi.iwate.jp/heritage/history/index.html
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