書庫のまくら

世界遺産を中心に思いついた事、好きな事を書いています

ダイエット記 002「ダイエット2日目」

「2日目」

2月20日 体重 76.0kg

f:id:hayato0129:20190220065733j:image

減量開始2日目、昨日から開始したダイエットですが、さすがに落ちてます。−1.2kg

まぁ、順調でしょうね。

昨日の食事は・・・

  • 朝食・・・コーヒー(ブラック)
  • 昼食・・・職場の食堂で蕎麦を3/4 米抜き
  • 夕食・・・肉じゃが(肉の代わりに鯖の水煮)米抜き

夕食の肉じゃがは初めて作ってもらったメニューですが、鯖の水煮美味しいですね!

流行るのも納得です。

日中はデスクワークが中心なので、ついつい何かを口にしてしまいますが、コーヒー(ブラック)とおしゃぶり昆布、ガムで口が寂しいのを紛らわしております。

仕事中にお菓子を食べるな!というツッコミはスルーで(笑)

当分は食事制限をメインに減量していく予定です。胃が大きくなっているのを慣らしていくまではフラフラになると思いますが、頑張ります!

ダイエット記 001 「ダイエット始めます」

2月19日「初日、ダイエット始める」

昨日、ツイッターで食事のことについて呟いたのをキッカケに自分の体重のことを思い出しました。今年の3月初めに長女が中学校を卒業します。

とてもめでたいことですが、1つ問題があるのを忘れていました。スーツが入りません(汗)

下の子がまだ小学生ですし、これからお金がたくさんかかります。出来るだけ無駄な出費は控えたいところ。。。これは体重を落として手持ちのスーツで乗り越えなければなりません。

残された時間は約2週間、太りやすい体質から今までも何度もダイエットを繰り返してきたので何とかなるんじゃないかと思います。

 

現在の体重はこちら

f:id:hayato0129:20190219072222j:image

長いこと測ってなかったら驚くほど太っていました。スーツを着るには70kgぐらいまでは落とさなければなりません。

 

とりあえず、ダイエットの項目として。

  • 朝食を食べない。
  • 加糖飲料を飲まない。
  • 菓子類を食べない。
  • 米、パンを抑える。

ヘルニア持ちなので運動はかえって体調を崩す可能性があるので、後々考えたいと思います。

 

出来るだけ毎日更新していこうと思います。

健康 001 「朝食は食べない方がいい」

米、パン、麺、お菓子、ジュース、酒・・・

そろそろ健康にも気を遣わなければならない年齢になってきましたが、中々食生活を見直すことはできません。

そんな私が昨年の3月から8月にかけて80キロ〜70キロまで体重を落としたのは、「米制限」と

「朝食抜き」でした。

下の記事を参考に朝食を食べない、食べなくても平気な状態にもっていくまで10日程度。

その10日間は大変でしたが、体重はスルスル落ちました。

結果として、私の場合は「朝食抜き」がダイエット効果があるというよりも、朝食をとると太る事が分かりました。朝から食べると昼、夜もガンガン食べちゃいます。胃が大きくなってしまっている感覚です。

とにかく食べなくても平気な状態、体質に変える事が大事なのかな?という感じです。

 

朝食が「健康に重要」はウソ!『朝ごはんが病気をつくる』4つの真実

http://suimin30.com/breakfast-kenkou/

世界遺産 016「富岡製糸場」

f:id:hayato0129:20190218071834j:image

富岡製糸場と絹産業遺産群


産業の近代化に貢献した近代産業遺産

明治政府の国策として明治5年(1872年)に建造された富岡製糸場は、フランス技術を導入した生糸の大量生産によって、養蚕・製糸にかかわる一連の絹産業を発展させ、群馬県域をわが国有数の絹産業の地にした。その先進的な技術は国内各地に伝播され、さらに養蚕の技術革新が進み、原料繭の大量生産に成功した。

1920年代には世界一の生糸輸出国になり、安価で良質な生糸を輸出し、高級繊維の絹をより身近な存在に変えた。戦後は、生糸生産のオートメーション化にも成功、自動繰糸機は全世界に輸出され、絹の大衆化に貢献、世界の絹産業を支え、産業の近代化に貢献した近代産業遺産としてはわが国では初登録となった。

木骨煉瓦造(もっこつれんがぞう)

木造の柱(はしら)と梁(はり)の軸部を組み立て、柱間部分に煉瓦を積んで壁とする構造。上部構造物を支えるのは木造の柱と梁で、西洋で見られる壁で上部構造物を支える煉瓦造(れんがぞう)とは異なる。日本の伝統的な柱と梁で構成する構造と、西洋の煉瓦造が合体した構造で、和洋技術が折衷した構造になっている。

富岡製糸場の7棟は木骨煉瓦造で造られ、その中でも大きな建造物である東西の繭倉庫や製糸場は日本特有の産業建築様式を生み出した。


構成資産は次の4資産。

登録地域の面積は、構成資産 7.20ヘクタール、それを保護する緩衝地帯 415ヘクタール。

 

富岡製糸場富岡市

f:id:hayato0129:20190218072753j:image

 明治5年(1872)に明治政府が設立した官営の器械製糸場。和洋技術を混交して建てられた木骨レンガ造の繭倉庫や繰糸場などがほぼ完全にのこっています。民営化後も一貫して製糸を行い,製糸技術開発の最先端として国内養蚕・製糸業を世界一の水準に牽引しました。東置繭所・西置繭所・繰糸場の3棟が国宝,ほかに5棟と2つの附が重要文化財に指定され,併せて国史跡に指定されています。


田島弥平旧宅(伊勢崎市)

f:id:hayato0129:20190218072906j:image

 通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」を大成した田島弥平が,文久3年(1863)に建てた主屋兼蚕室。瓦葺き総二階建てで換気のための越し屋根を備えた構造は,近代養蚕農家の原型になりました。国史跡に指定されています。


高山社跡藤岡市

f:id:hayato0129:20190218072945j:image

 高山長五郎は,通風と温度管理を調和させた「清温育」という蚕の飼育法を確立しました。この地に設立された養蚕教育機関高山社は,その技術を全国及び海外に広め,「清温育」は日本の標準養蚕法になりました。国史跡に指定されています。


荒船風穴下仁田町

f:id:hayato0129:20190218073022j:image

 岩の隙間から吹き出す冷風を利用した国内最大規模の蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設。冷蔵技術を活かし,当時年1回だった養蚕を複数回可能にし,繭の増産に貢献しました。国史跡に指定されています。

f:id:hayato0129:20190218073045g:image

 

引用 : 文化遺産オンライン

http://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlink8

引用 : 日本の世界遺産-平和が一番

https://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/index.html

画像提供 富岡市

http://www.tomioka-silk.jp/spot/freedownload/

画像提供 伊勢崎市

https://www.city.isesaki.lg.jp/kanko/rekishi/shitei/shiseki/4628.html

画像提供 藤岡市

https://www.city.fujioka.gunma.jp/kakuka/f_bunkazai/takayamasya_ato.html

画像提供 下仁田町

https://www.town.shimonita.lg.jp/fuketsu/m01/01.html

世界遺産 015「平泉-仏国土を表す考古学的遺跡群」

f:id:hayato0129:20190217153041j:image

平泉 - 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群

地域 : 岩手県

登録年 : 2011年

登録基準 : II・VI

登録区分 : 文化遺産


平泉は、11世紀~12世紀の日本列島北部領域において、仏教に基づく理想世界の実現を目指して造営された政治・行政上の拠点です。

 その拠点に存在する4つの庭園は、奥州藤原氏により、現世における仏国土(浄土)の象徴的な表現、つまり池泉・樹林・金鶏山頂と関連して仏堂を周到に配置することにより実体化した理想郷の光景として造営されました。4つの庭園のうち3つは、神聖な山である「金鶏山」に焦点を合わせており、浄土思想の理想と、庭園・水・周辺景観の結びつきに関する日本古来の概念との融合を例証しています。また、浄土庭園のうち2つは、発掘調査により発見された多くの詳細事項に基づき復元されたものであり、他の2つは現在も地下に埋蔵されたまま残されています。さらに、重厚に金箔を貼った中尊寺の仏堂は、12世紀から残る唯一のものであり、奥州藤原氏の巨大な富を反映しています。

 このかつての巨大な政治・行政上の拠点に存在し、浄土庭園、12世紀から残存する顕著な仏堂、神聖なる金鶏山との関係を伴う4つの寺院仏堂の複合体は、平泉の財力を反映する類い希なる集合であり、日本の他の都市の仏堂や庭園にも影響を与えた計画・庭園の意匠設計に関する概念を表しています。 


構成資産は次の5資産。


中尊寺

f:id:hayato0129:20190217153151j:image

 奥州藤原氏の初代清衡が12世紀始めから四半世紀をかけて造営した寺院です。境内には、金色堂金色堂覆堂、経蔵等の国宝及び重要文化財があり、鎮護国家大伽藍一区跡等、境内の全域が特別史跡に指定されています。金色堂は、境内北西側に位置する阿弥陀堂建築の霊廟で、藤原氏4代の遺体及び首級が安置されており、平泉の政治・行政のみならず、精神的な拠り所にもなっています。

中尊寺中尊寺金色堂金色堂覆堂/中尊寺経蔵/白山神社能舞台中尊寺境内)

 

毛越寺

f:id:hayato0129:20190217153749j:image

 2代基衡が12世紀中頃に造営した寺院の跡です。境内には、特別史跡及び特別名勝に指定されている浄土庭園と、それらの構成要素である常行堂が含まれています。また、常行堂で行われる常行三味の修法と「延年」の舞は、12世紀における浄土思想の一端を示すものとして重要です。 

毛越寺毛越寺境内附鎮守社跡/毛越寺庭園)

 

観自在王院

f:id:hayato0129:20190217153702j:image

 毛越寺の東に接して基衡の妻が建立した寺院の跡です。発掘調査の結果、園池を中心として、北側には大小の阿弥陀堂が設けられており、阿弥陀如来の極楽浄土の表現を意図して浄土庭園が造られていたことが明らかとなっています。

観自在王院跡(毛越寺境内附鎮守社跡/旧観自在王院庭園)

 

無量光院跡

f:id:hayato0129:20190217153631j:image

 3代秀衡が12世紀後半に建立した寺院の跡です。西方に金鶏山が控え、園池に浮かぶ大小3つの島に翼廊付の仏堂と拝所・舞台をそれぞれ設けた空間構成は、浄土庭園の最も発展した形態と考えられています。 


金鶏山

f:id:hayato0129:20190217153542j:image

 標高98.6mの山で、山頂に経塚が設けられていました。浄土思想に基づいて完成された政治・行政上の拠点としての、平泉の空間設計の基準となった信仰の山であると考えられます。


登録地域の面積は、構成資産 176ヘクタール、それを保護する緩衝地帯6,008ヘクタール。

f:id:hayato0129:20190217153458g:image

源義経と平泉

f:id:hayato0129:20190217153942j:image

安土桃山時代源義朝の九男として生まれた源義経は父の義朝が「平治の乱」で平清盛に敗れ、討ち死にした後は京都の鞍馬寺にあずけられることとなった。しかし、僧になることを嫌った義経は、16歳で鞍馬寺を脱して、平泉に向かいました。藤原秀衡は、義経をあたたかく迎えたといわれています。平泉は、義経が青春時代を過ごした地と考えられています。

義経は、兄の頼朝が平氏に対して兵をあげたことを知ると、平泉から頼朝のもとにかけつけています。義経は「一の谷の戦い」「屋島の戦い」で平氏に大きな打撃をあたえ、ついには「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅ぼした。

平家を滅ぼした褒美に朝廷から役職をもらい受けた義経であったが、そのことで頼朝との仲は悪くなってしまいました。そして、ついに義経は追われる身となり、長い逃避行の末、再び秀衡のもとに身を寄せたのです。

しかし、秀衡が間もなく死んだため、頼朝からの圧力は強まっていきました。跡継ぎの泰衡は、この圧力に耐えられず、衣河館に義経を襲います。義経は、ついに妻子とともに自害したのです。

 

引用 : 文化遺産オンライン

http://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlinkC

ひらいずみナビ

http://hiraizumi.or.jp/heritage/index.html

引用 : 日本の世界遺産-平和が一番

https://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/index.html

平泉の文化遺産

https://www.town.hiraizumi.iwate.jp/heritage/history/index.html

フリー素材ぱくたそ(www.pakutaso.com)

世界遺産 014「紀伊山地の霊場と参詣道」

f:id:hayato0129:20190216075333j:image

紀伊山地の霊場と参詣道

神仏習合の文化が育まれてきた紀伊山地

紀伊山地の3つの霊場は、それぞれ異なる信仰の霊場だったが、それぞれが参詣道で結ばれ、日本古来からの神道と仏教が融合した神仏習合の文化が育まれてきた。しかしながら、明治維新政府の神仏習合を禁止する神仏分離令神仏判然令)をきっかけに、全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、寺院や仏具が破壊された。さらに、明治39年1906年)に施行された「神社合祀令」によって全国で5万もの神社がつぶされ、熊野でも神社の森が伐採されるという危機に瀕した。この危機に対し、和歌山県出身の博物学者・南方熊楠(みなみかたくまぐす)は、「神社をつぶすということは自然と人間社会を破壊するもの」と日本で初めてエコロジーの考えを提唱して「神社合祀令」に反対、「熊野の森を守れ!」と立ち上がった。那智大滝の原生林や樹齢500年をこえる熊野古道の杉木立は、そうした運動により守られた。


構成資産

和歌山県奈良県三重県にまたがる次の資産群。

 

霊場「吉野・大峯」

紀伊山地の最北部にあり、三霊場の中で最も北に位置する。農耕に不可欠の水を支配する山あるいは金などの鉱物資源を産出する山として崇められた「金峯山」を中心とする「吉野」の地域と、その南に連続する山岳修行の場である「大峯」の地域からなる。

修験道の中心的聖地として発展し、10世紀の中頃には日本第一の霊山として中国にもその名が伝わるほどの崇敬を集めるようになりました。日本中から多くの修験者が訪れ「吉野・大峯」を規範として、全国各地に山岳霊場が形成されていきました。

吉野山吉野水分神社金峯神社金峯山寺/吉水神社/大峰山

f:id:hayato0129:20190216081658j:image

 

霊場熊野三山

紀伊山地の南東部にあり、相互に20~40kmの距離を隔てて位置する「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の三つの神社と「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」の二つの寺院からなる。三つの神社はもともと個別に自然崇拝の起源を持っていたと考えられ、10世紀後半は他の二社の主祭神を相互に合祀するようになり、以来「熊野三山」あるいは「熊野三所権現」と呼ばれ、多くの皇族・貴族の崇敬を集めるようになった。「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」は「熊野那智大社」と一体となって発展してきた寺院で、神仏習合の形態をよく保っているものです。

熊野本宮大社/熊野速玉大社/熊野那智大社青岸渡寺那智大滝那智原始林/補陀洛山寺

f:id:hayato0129:20190216081733j:image

 

霊場高野山

「吉野・大峯」の西南西約30kmに位置し、空海が唐からもたらした真言密教の山岳修行道場として816年に創建した「金剛峯寺」を中心とする霊場。「金剛峯寺」の伽藍は、真言密教の教義に基づき本堂と多宝塔を組み合わせた独特のもので、全国の真言宗寺院における伽藍の規範となっている。また、「丹生都比売神社」の祭神は、高野山一体の地主神で、空海にこの地を譲った神と伝えられ、「金剛峯寺」の鎮守として祀られたものです。

丹生都比売神社/金剛峯寺/伽藍地区、奥院地区、大門地区、金剛三昧院地区、徳川家霊台地区、本山地区/慈尊院丹生官省符神社

f:id:hayato0129:20190216081759j:image

 

参詣道

霊場に対する信仰が盛んになるにつれて形成され、整備された「大峯奥駈道」「熊野参詣道」「高野参詣道」と呼ばれる三つの道です。これらの道は、人々が下界から神仏の宿る浄域に近づくための修行の場であり、険しく清浄な自然環境のなかに今日まで良好な状態で遺り、沿道の山岳・森林と一体となった文化的景観を形成しています。

大峯奥駈道」は吉野・大峯と熊野三山の二大霊場を結ぶ山岳道で、修験道の最も重要な修行の場です。

「熊野参詣道」は熊野三山に参詣する道で、京都方面からの参詣のために最も頻繁に使われた中辺路と高野山との間を結ぶ「小辺路」、紀伊半島の南部の海沿いを行く「大辺路」、同じく南西部の海沿いを行く「紀伊路」、伊勢神宮との間を結ぶ「伊勢路」からなる。

「高野参詣道」は金剛峯寺北側の紀ノ川から高野山に至る経路、霊場高野山を囲繞する経路などからなる参詣道です。

大峰奥駈道/玉置神社を含む/熊野参詣道/熊野川七里御浜(花の窟を含む)/高野参詣道

f:id:hayato0129:20190216081828j:image

登録地域の面積は構成資産 506.4ヘクタール、それを保護する緩衝地帯12,100ヘクタール。

登録されている参詣道の総距離は 347.7km。

f:id:hayato0129:20190216081945g:image

 

引用 : 日本の世界遺産-平和が一番

https://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/index.html

引用 : 文化遺産オンライン

http://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlink8

Dlift

https://dlift.jp/photo/photoDisplayWorldHeritage186

 

 

 

 

世界遺産 013 「石見銀山遺跡とその文化的景観」

f:id:hayato0129:20190215071901j:image

石見銀山遺跡とその文化的景観

石見銀山遺跡は日本海に面する島根県のほぼ中央に位置し、石見銀の採掘・精錬から運搬・積み出しに至る鉱山開発の総体を表す「銀鉱山跡と鉱山町」「港と港町 」及びこれらをつなぐ「街道」から成っています。この遺跡は、東西世界の文物交流及び文明交流の物証であり、伝統的技術による銀の生産を証明する考古学的遺跡及び銀鉱山に関わる土地利用の総体を表す文化的景観としての価値を持っています。 

 

銀鉱山跡と鉱山町

 16世紀から20世紀にかけて採掘から精錬まで行われた銀鉱山跡と、その麓の谷間に細長く存在するかつての鉱山町から成り、さらにこの銀鉱山を軍事的に守護するための周辺の山城跡が含まれています。

 銀山柵内と呼ばれた銀鉱山跡には、数多くの採掘跡やこれに近接して一体となる作業場跡等の生産・生活関連の要素、神社・寺院等の信仰関連の要素、山吹城跡・柵列跡・番所跡等の支配関連の要素など、相互に関連しあう諸要素がよく残り、独特の土地利用の在り方を示しています。

   鉱山町は南北約2.8㎞の歴史的な町並みであり、北側の大森地区と南側の銀山地区の2つの地区に区分されます。大森地区には武家・商家・寺院など、様々な身分や職業の人々が混在して居住する町並みが展開し、銀山地区には当時人々が集住したかつての町場の地割の跡や寺院などの信仰の痕跡がよく残っています。

 また、銀山の周囲に点在する城跡は、石見銀山支配をめぐる攻防戦が行われた重要な城であり、日本における中世山城の構造的特徴をよく表しています。

f:id:hayato0129:20190215072536j:image
<構成資産>

銀山柵内、代官所跡、矢滝城跡、矢筈城跡、石見城跡、大森・銀山、宮ノ前、熊谷家住宅、羅漢寺五百羅漢 

 

港と港町

 石見銀及び銀鉱石の積出港が鞆ケ浦と沖泊であり、それに伴って港町として発展したのが温泉津です。鞆ケ浦は、石見銀山が開発された16世紀前半に当時の国際貿易港博多に向けて銀及び銀鉱石を搬出した港です。沖泊は、石見銀山を毛利氏が支配した16世紀後半に銀を搬出した港である。また、温泉地でもあった温泉津は、16世紀後半には沖泊と一体となって銀山で消費される諸物資の搬入地となり発展しました。

 これらの港・港町には深い湾とその奥の谷間を最大限に利用した土地利用の工夫がみられ、往時を偲ばせる船舶の係留装置や歴史的に関わりのある神社、寺院、伝承地があるほか、谷筋には街路に沿って16世紀以来の集落の土地利用形態がよく残されています。

f:id:hayato0129:20190215072944j:image

<構成資産>
鞆ケ浦、沖泊、温泉津

 

街道

 銀鉱山・鉱山町と港・港町を結び、銀及び銀鉱石並びに諸物資の輸送路として機能したのが街道です。銀山が開発された16世紀前半に、銀山から鞆ケ浦に向け運搬路とされたのが総延長7.5㎞ほどの石見銀山街道鞆ケ浦道であり、16世紀後半に銀山から沖泊に向け運搬路とされたのが総延長約12㎞の石見銀山街道温泉津・沖泊街道です。

 2つの街道には、通行を容易にするための道普請の跡がよく残るとともに、道中には運搬に関係した伝承地、通行者や周辺住民が通行安全や病気平癒を祈った信仰関連の石碑・石仏などが点在して残ります。

f:id:hayato0129:20190215072927j:image

<構成資産>

石見銀山街道鞆ケ浦道、石見銀山街道温泉津・沖泊道 

 

f:id:hayato0129:20190215072932j:image


引用 : 文化遺産オンライン

http://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlink8

列島宝物館

http://www.i-treasury.net/